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悲しみはどこに   


 人はみな悲しみの器。頭を垂りて心ただよふ夜の電車に
                     (岡野弘彦)

 年齢を重ねるほどに、いや長生きの代償としてか、悲しみや独りをかみしめる機会が増えてくるものと思う。
 そんな時、歌を詠むことのできる人のしあわせをつくづく感じる。歌があれば、悲しみも独りも全部容れてしまうことができる。それはけっして大きい器ではなく、限られた数の文字しか入らないコンパクトな器である。そしてまた、悲しみや哀感が実に都合よく収まる(入れ方にもよるが)

 「人はみな悲しみの器」とはよく言ったものだ。歌もまた然り。
 歌が悲しみの器であるならば、悲しみも孤独もネタにしてしまうことができる。
  お笑いの芸人が自分に降りかかる不幸を「ラッキー」と感じ、それを面白おかしく話すのと同じように。

 年齢を重ねるということは、必然的にネタも多くなってくるということだ。
 器を持たない者はただ項垂れ、文字通り言葉にならない寂しさに身をよじるだけかもしれない。
 器を持つ者には、言いようもない悲しみや喜び(これは少ない)をネタとして流し込む、大変ではあるが満ち足りた時間が一日の終わりに待っているのである。

 人は悲しみの器。歌も悲しみの器。
 
 ネタは当分尽きそうもない。

by kanitachibana | 2013-04-25 00:16 | 短歌 | Trackback(4) | Comments(0)

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