10月17日 讀賣新聞 よみうり文芸
2015年 10月 17日
水団を食べての団欒(だんらん)なつかしき居場所なき子の死の記事を読む
横須賀市 白田 富代
かつては、貧しくとも団欒があった。寄り添って生きてきた。「家」そのものに求心力があり、鍋を囲んで家族が揃うことはごく当たり前のことであった。親がいて子がいて食事があれば、他に何の悩みがあっただろう。だが現代は生活環境が変わり、家庭での食事さえも個別の時間差だ。しばらく顔を合わせていない子に対しても、携帯があれば即座に連絡がとれ、いかにも「繋がっている」錯覚、幻想を持ってしまう。
四六時中スマホを見つめている子も、ふと顔をあげてみると自分が一人であることに気付かされる。やさしい言葉(文字)は飛び交うが、温もりはは肌で感じるものである。言葉はなくとも、誰かを側に感じることが救いとなることだろう。
<俳句>
せせらぎに沿ふ宿坊や新豆腐
茅ヶ崎市 合田 啓三
水の音まで聞こえてきそうだ。清新さに貫かれている。
村沈む後の先陰湖水澄む
海老名市 山田 山人
ダム建設により、村一つ沈んでしまう話はよく聞く。晴れた日の透明度の高い水は、それはそれでまた切ないものである。
腹帯の娘訪ひ来て秋日和
三浦市 三宅 進
久々の里帰り。あの小さかった子も、いよいよ人の親か。感慨一入である。
回覧板届く路地なり萩(はぎ)の花
金沢区 持田 こう
インターネット、メールの時代でも、回覧板は健在である。たとえよく読まなくとも、回覧順に次のお宅に届ける。届け先のポストの癖まで覚えてしまう。
<川柳>
高らかなおんなを酔って百舌(もず)の贄(にえ)
海老名市 やまぐち珠美
百舌の習性か。柿の木の枝などに、蛙とかが突き刺されている。大方は自分で食べずに、他の鳥の餌になってしまうらしい。小さい頃、木登りをして見つけた時など、なぜかどきどきしたものだ。
鳥語から盗み聞きした速い秋
港北区 山本喜太郎
個人情報の観点からも、盗み聞きの内容を漏らすのも如何なものかとは思いますが。。。メルヘンですね。
命ある限りは花に水を遣(や)る
高津区 佐藤章子
「命ある限り」は花にかかるか、あるいは自分自身にか。いつ来るやにしれないその日を案じてもしょうがない。与えられた今日をしっかり生きたいものだ。
by kanitachibana | 2015-10-17 11:50 | 俳句 | Trackback(633) | Comments(0)

