『たましいを運ぶ舟』(道浦母都子)より
ガンジスの光の川をさかのぼる草魚となって五月雨を行く
発症より七度目の秋 この朝も螢(ほたる)のような錠剤数う
愛は日常の埒(らち)の外(ほか)なりつかのまを艶(つや)めきて消ゆ冬の青虹(せいこう)
つかみそこねし夢をふたたび掬(すく)わんとほうほう螢うすやみに追う
水飲みて眠るほかなしほうほたる見て来たる瞳(め)はびしょ濡(ぬ)れの玻璃(はり)
『無援の抒情』が1980年の出版だから、それからもうかなりの時間が経っている。筆者は短歌のみならず、エッセイや小説も手掛けている。短歌だけでは表現しきれないもの、吐き出しきれないものがあるのだろう。
韻文には韻文の、そして散文には散文の持ち味がある。リズム感のある韻文はつい口に出して読んでしまいたくなるし、なによりもそのリズムが我々日本人の身体に沁み滲みついているようだ。字数の少ない分、その解釈もまた読み手に委ねられている。自由なのだ。
韻文は読み手の口より再生され、また読み手の心に戻っていく。散文は字数に拘束されることなく、のびのびと情景を浮かび上がらせてくれる。